N1 読解 053
 

【問題】次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

 

大学では入学式が終わり、履(a)シュウ科目の登録やオリエンテーションが行われている。これを機に「教養」について考えてみたい。むろん、新入生のみならず、何十年も前の“大昔の新入生”も歓迎である。というのは、今、時代は教養の転換期にあるからだ。

出版界では、ここ20年近く、文学全集や百科事典の新企画がない。私が学生であった40年ほど前は、こうした教養体系が権威を持っていた。文学の名作を作家別に収録した文学全集を1冊ずつ(そろ)えるのは大学生の誇りでもあり見栄(みえ)でもあった。ローンで百科事典を買う人も多かった。しかし、昨今、この種のローンだと、英会話のCDセットである。「教養」より「実用」の時代になっているわけだ。もっとも、高価な英会話CDセットが本当に実用になるかどうかは、保証の限りではないのだが。

理科系の頭脳を持つ青年たちにも、同様の変化が起きている。理学部へ進学して科学者を目指すより、医学部薬学部へ進学して医者や薬剤師になろうとする学生が多い。当然、かつての理科系青年たちが愛読していた寺田寅彦などの科学随筆を読む学生たちは激減してきている。

(1)こういう傾向を、私は社会の健全化の現れだと思う。教養の崩壊を嘆く人の気が知れないとさえ思う。だって、教養なんて身につけたって、具体的にいいことなんて何もないんだもの。ただし、それは一般庶民の話。社会の中核となり、指導的立場に立つ人たちは、そうではない。この人たちには、一見何の役にも立たない教養が必要である。(2)教養が作る見識、教養に裏打ちされた洞察力がなければ、これからの日本の進路は指し示せない。

例えば、前世紀から今世紀への世紀の変わり目をはさむ10年余に、こんな難問が起きている。(いま)だ裁判さえ完全決着を見ないオウム真理教事件。世界中で(b)フン争の火種となっているイスラム問題。アジア外交の岩礁となっている首相の靖国神社参拝。これらを、信教の自由や他者への寛容といった旧来の良識で解決しようとしても、不可能だ。一つに適用できた理念が、もう一つには適用できなくなるからだ。歴史や文明や人間についてのグランドデザインを考えなおさなければならない時点に、今我々は来ている。

しかし、そんなことで一般庶民が頭を悩まして何になろう。また、誰もがこういうことについて見識を持たなければならないという強迫観念が我々を幸福にしてきただろうか。イナバウアーや3回転ジャンプを12000万人に強制する社会は異常な社会である。(3)12000万人に教養と見識を強制する社会も、これと同じように異常な社会なのだ。

教養の崩壊を嘆き教養を[ A ]しようと言う人たちから最近よく聞かれる言葉が「リベラル・アーツ」である。深く広い一般教養を意味する言葉だ。だが、これを“自由な学芸”とすれば誤訳である。大型英和辞典にはたいてい言葉の由来が出ているが、リベラル・アーツとは、古代ローマで自由民のみに許された特権的学芸という意味である。実際の生産労働は奴隷が(c)ニナっているのだから、[ B ]が[ C ]の役に立たないのも当然なのである。

私は、こういう教養が特権的であるからけしからんと言っているのではない。全く逆に、社会の中核となる人には、実用的な学問とは別に、教養が必要だと言いたいのだ。

社会の中核になる人たちは、人口の1パーセントである。これを少ないと見るか、多いと見るか。100人に1人と考えれば少ない。日本中で120万人と考えれば、大都市の人口に匹(d)テキする。この多いようで少なく少ないようで多い1パーセントの人たちが教養人であり、読書人口の上限である。

出版界では、こんなことが言われる。ミリオンセラーは「本を読まない人」が買わなきゃ出ないよ、と。つまり、100万部を超える本は、普段本なんて読んだことのない人に買わせなければ出現しない。先の、読書人口の上限は総人口の1パーセント説を、はしなくも証明している。

もちろん、売れない本が読書人の読む本、というわけではない。1988年年末、アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)が刊行されるや、さして宣伝もしないのに、たちまち増刷になり、発売1年ほどで十数万部に達した。大判で二段組、内容は思想史の観点からの文明批評である。それが自然に売れ、最終的には20万部ほどになった。思想史の専門家がそんなにいるはずはないから、それ以外のさまざまな職業の教養人がこの本を読んだのである。

日本はいろいろな問題を抱えているが、このことを考えれば、まだまだ大丈夫だ。ただし、これは18年前の話である。今はどうなのだろう。

足立巻一(あだち・けんいち)『やちまた』という本がある。江戸時代の文法学者の評伝である。いかにも面白くなさそうな本に思えるが、この半世紀のうちのベストファイブに必ず入るぐらい面白い。文法学者の伝記と著者自身の回想がからみ合い、(4)なまじの推理小説など足元にも及ばない。32年前に出版された時、各方面から最大級の讃辞(さんじ)を浴びた。20代だった私はこの本を読んで、何の「実用性」もない評論稼業の道に踏み込んでしまった。若い人に、何か面白い本はないですかと問われると、たいていこの『やちまた』を薦める。そして、途中で挫折しましたと言われると、それは君が健全な証拠だよと答える。この本は朝日文芸文庫に収録されていたが、現在は品切れだ。教養には危険な魅力もある。それを考えれば、この品切れもまた社会の健全さの象徴かもしれない。

 

『朝日新聞』06412日付

学芸「読書と教養 時代は転換期、志あらば読め」呉智英氏の文章より

 

【問1】下線部(a)「履シュウ科目」と同じ漢字を含むものはどれですか。

1.彼の作品はシュウ逸だ。               (       )

2.時計をシュウ理する。                 (       )

3.演シュウ問題を解く。                 (       )

4.シュウ念を燃やす。                   (       )

 

【問2】下線部(b)フン争」と同じ漢字を含むものはどれですか。

1.不満がフン出する。             (       )

2.フン末の薬を飲む。             (       )

3.家庭的なフン囲気の店。         (       )

4.書類をフン失する。             (       )

 

【問3】下線部(c)ニナって」と同じ漢字を含むものはどれですか。

1.旅費を負タンする。             (       )

2.毎日タン錬する。              (       )

3.大タンな行動をとる。           (       )

4.生活がタン調になる。           (       )

 

【問4】下線部(d)「匹テキ」と同じ漢字を含むものはどれですか。

1.病院で点テキを受ける。         (       )

2.不正行為をテキ発する。         (       )

3.彼は好テキ手だ。              (       )

4.警テキを鳴らす。              (       )

 

【問5】空欄[ A ]~[ C ]に入る語の組み合わせとして最も適当なものはどれですか。

1.A 重視  B 教養     C 実用

2.A 阻止  B 専門家   C 教養人

3.A 強制  B 自由民   C 奴隷

4.A 奨励  B 実用     C 教養

 

【問6】下線部(1)こういう傾向」の内容として適当でないものはどれですか。

1.40年ほど前に比べ、文学全集などの教養体系が権威を持たなくなった。

2.ローンで文学全集や百科事典を買い揃える大学生が多くなった。

3.理科系では、就職に結びつく学部を選択する学生が増えてきた。

4.科学随筆を読む学生の数が激減してきた。

 

【問7】下線部(2)教養が作る見識、教養に裏打ちされた洞察力」の説明として最も適当なものはどれですか。

1.過去の権威ある知的体系を利用してより高度な教養を身につけることで、歴史や文明や人間について総合的に理解しようとする力。

2.さまざまな分野の知識を幅広く学び、それを自分のものとすることによって、深刻な社会問題を引き起こしている要因を追究し、分析する力。

3.歴史や文明や人間について、以前からの考えにとどまることのない、教養によってもたらされた確かな判断力と物事の本質を見抜く力。

4.過去における歴史や文明や人間に対する考えと、現在の歴史や文明や人間に対する考えの相違点をするどく見抜く力。

 

【問8】下線部(3)12000万人に教養と見識を強制する社会も、これと同じように異常な社会 」に対する筆者のとらえ方として適当でないものはどれですか。

1.すべての人が見識を持たなければならないという無理じいの考えによって、人がみな幸福になるとは思えない。

2.人が教養と見識を身につけることは、イナバウアーや3回転ジャンプを成功させるくらいとても難しいことである。

3.教養を身につける必要性は、社会の中核となり指導的立場に立つ人口1パーセントの人たちにある。

4.実用の役に立たないという点から言えば、一般には教養を身につけても具体的にいいことはない。

 

【問9】下線部(4)なまじ」の意味として最も適当なものはどれですか。

1.複雑怪奇

2.無味乾燥

3.奇想天外

4.中途半端

 

【問10】本文の内容に合うものはどれですか。

1.現代の学生は、物事の考え方や生き方が現実的であり、歴史や文明や人間について考えなおさねばならないことを理解している。

2.総人口の1パーセントにあたる人たちが社会の中核となるが、この数は読書人口の上限であり、普段から本を読んでいる人の数とほぼ同じである。

3.社会の中核となって一般庶民の指導的立場に立つ人たちが身につけたいのは、役に立つ「実用」ではなく、「実用」の役には立たない「教養」である。

4.教養の崩壊を嘆く声もあるが、むしろ社会の健全化ととらえるべきで、かといってすべての人が教養に魅力を感じなくなったのではない。

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